鬼滅の刃と同調圧力
今日はこの話をしよう。
正直、私の感想は鬼滅の刃は売れたのが、
奇跡
ぐらいの漫画であると考えるのが妥当だと思う。
最終回あたりの原作と、アニメ1話目を見た感想は、
「くっそつまらない」
なぜなら、見ればわかる動きでも変に解説が入るのは興ざめではあるし、その前に…
主人公弱すぎ…
ナルトでもワンピでも銀魂でもここまで雑魚な主人公は作らなかったのにそこが一番のカルチャーショックではある。
いやいや、妹助けるために土下座って…
妹の攻撃や変な奴の攻撃よけたのに土下座はないだろ。急に怒鳴るわわけがわからないよ。
このままでは、感想で終わってしまうので本題に入っていこうと思う。
同調圧力と鬼滅の刃
1.同調圧力とは
同調圧力(どうちょうあつりょく 英: Peer pressure)とは、地域共同体や職場などある特定のピアグループ(英: Peer group )において意思決定、合意形成を行う際に、少数意見を有する者に対して、暗黙のうちに多数意見に合わせるように誘導することを指す。
今年は、ウイルスの影響で、よく注目されたので、これを機に振り返ってほしい。
2.鬼滅の刃とは
鬼滅の刃』(きめつのやいば)は、吾峠呼世晴による日本の漫画。『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて2016年11号から2020年24号まで連載された[3]
今、話題沸騰中の漫画であり、最近映画が公開された。
3.同調圧力と日本人
まず、鬼滅の刃と同調圧力に入っていく前に、今までの同調圧力について語っていこうと思う。
私は、もともと、同調圧力は大嫌いな人間である。なぜなら、私は今までのように昔から自分の意見を貫く性格であり、他人が「面白いよ」といったとしても自分が好まないものであれば、つまらないという人間ではある。
この
「つまらない」
は、心から出た言葉である。
しかし、この「つまらない」を否定する人がいる。
例えば、私は、「君の名は」はとても退屈で駄作なものであると感じる。しかし、これを友人の前で話すと
「あれがつまらないとかおかしい」
ネット上で発信すると
「発達障害」
「君の名はアンチで草」
「チーズ牛丼温玉のせ大盛り食べてそう」
「キモオタで草」
といわれる。
同じような意見を持つ方が人格否定までされたそうだ。
これが、同調圧力である。
また、今、話題のホリエモンの件でも
マスクをつけるがつけまいが、餃子屋を攻撃するのにも同調圧力が存在していると考える。
同調圧力が背景にあるものとして、一番有名なものはいじめが挙げられる。これは、誰かが誰かをいじめており、いじめを止めようとすると、逆にいじめられるがゆえに、いじめたくなくてもいじめてしまう。このいじめが、子供の世界だけではなく、大人の世界でも存在していると思うととても悲しいことではあるが、現に存在している。
以下の記事を見てみる。
今、新型コロナウイルスにより、日本社会の脆弱性をあぶりだされている。その中には、行き過ぎた同調圧力がある。これは今一度考える問題ではあるのだが、マスメディアにより、この行き過ぎた同調圧力は拒否されつあると一時期は感じられた。
しかし…
2.鬼滅の刃のブームと同調圧力
ここ最近、鬼滅の刃が映画化した。これにより、ことあるごとに鬼滅の刃、鬼滅の刃とマスメディアでも多く紹介され、友人やネット上ではことあるごとに鬼滅の刃の話をする。
しかし、見ない人、もともと興味ない人を人格否定までする行為が、蔓延るようになってきた。
特に某掲示板はとてもひどい。同じ漫画雑誌の作品を持ち出し、ファンがいる前で全否定したり、何でもかんでも鬼滅の刃のパクリだといい否定する。
私はこういった人間こそ、根絶やしにしなければ同調圧力の問題はなくならないと考える。
3.同調圧力を悪とする考え方
私は、同調圧力は悪であると考える。なぜなら、同調圧力や集団主義であるのなら、自己責任の考え方は、成り立たない。同調圧力や集団主義を貫きたいのなら、富の再分配は必ずしなければならないし、犯罪は集団で責任を持たななければならなくなる。集団主義や同調圧力で、自分の身分や収入などは集団が責任を持つものではない。ならば、個人が責任を持てば、自分の富は自由に使え、自分の思想は自由に発言でき、好き嫌いを好きなように話せる。これのどこが悪いのだろうか?悪いと考えるのなら、その根拠を示してほしいぐらいだ。
4.鬼滅の刃を「つまらない」と言えない社会は健全な物とは言えない
新型コロナウイルスが蔓延し、今の社会システムの脆弱性が表れた今、集団主義や同調圧力は存在してはいけないと考える。一斉に「マスク警察」や「自粛警察」が非難されていた数か月前と違い、今度は、その警察が少なくなっていると同時に「鬼滅警察」が、多く存在するのは果たして、数か月前に皆が求めたことなのだろうか?今一度考えてほしい。
好きなもの、嫌いなものは人によって違う。それを否定するのはやはり、「自分さえよければ」の考えがやはりあるものだと考える。
5.最後に
私は最初に、鬼滅の刃はつまらないといったが、これで気分を害した方はどれほどいるだろうか?だからと言って謝ることはしないが、他人を受け入れるということは、反対意見を受け入れるということでもある。気持ちのいい意見ばかり聞いていると、本質を見失う。本質を見たいのなら反対意見を受け入れるべきである。
6.おまけ
それにしても、流行とは謎なものである。タピオカであったりと何が流行になるのか不明だなと感じた。
どんなこと言っても鬼滅の刃はつまらない
今日はこれにて
フェミニストとレースクイーン
今日はこの話をしよう。
フェミニストとレースクイーン
私は、女性差別に対してはいかなる理由であっても許されない行為だと考えている。しかし、果たしてレースクイーンなどの女性特有の職業の存在は女性差別なのだろうかについて考えていこうと思う。
(フロイトの発達段階論の中にあるある言葉を変えるのはおかしいとは思うが…)
1.フェミニストとは
フェミニズム(英: feminism)とは、女性解放思想、およびこの思想に基づく社会運動の総称であり[1]、政治制度、文化慣習、社会動向などのもとに生じる性別による格差を明るみにし、性差別に影響されず万人が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想・運動である[2][3]。女権拡張主義、男女同権主義などと訳されることもある[1]。
フェミニズムは市民革命に端を発し、19世紀から20世紀前半までの女性参政権運動を中心とする第一波フェミニズムと、社会習慣・意識に根ざす性差別との闘いを中心とする第二波フェミニズムに大別される。後者においては、思想的立場により、リベラル・フェミニズム、社会主義フェミニズム、マルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズム、エコロジカル・フェミニズムなど多様な潮流がある。また、性別に限らず、人種、階級、年齢、国籍、宗教、性的指向などの文化的・社会的要素を考慮し、インターセクショナリティというより広い概念のもとで捉えられるようになっている[4]。
フェミニズムの対置概念はマスキュリズム(男性解放運動、メンズリブ)。フェミニズムの推進者や同調者を「フェミニスト」と呼ぶ。
とあるように、フェミニズムの推進や同調をしている人のことをいう。
2.レースクイーンとは
レースクイーン(race queen)は、モータースポーツ(自動車、オートバイなどのレース)に参戦する各チームのスポンサーのコンパニオンであり職業美人である。主として20歳前後から30歳前後の女性が就いている。「RQ」と略される場合もある。
レース前配置(グリッド)を案内するため、レーサーの名前と番号が書かれたプラカードを持っている係員は、主催者が雇ったグリッドガール(Grid-Girl)である。
元々はレース主催者などに雇われた(選ばれた)数名の女性(例えば鈴鹿サーキットクイーン等)で、優勝者の表彰などレース運営の中で一定のシンボル的役目を担う者を指す言葉だったが、現在ではそれらの女性をサーキットクイーンと呼び、チームに雇われたキャンペーンガール(キャンギャル)をレースクイーンと呼ぶようになっている。また「レースクイーン」という用語は元々英語のPromotional modelのサーキット版というニュアンスで作られた和製英語で、英語では上記の「Promotional model」に加え「Paddock girls」などの名称が用いられている。
レースクイーンの分類としては、純粋にレースクイーンだけを生業とする者がいる一方で、学生やその企業の従業員が兼業で就業することもままある。また、タレントや俳優として名を成した者もしくはグラビアアイドルなどでデビューした後に年契約でレースクイーンを務める、コスプレイヤーやネットアイドルといった「アイドル予備軍」が参入する、など経歴や形態が多様化している。現役女子高生のレースクイーンといった低年齢化も進んでいる。
といったように、芸能界入りなどを目指している人々である。
3.私の考え
結論から言うと、
なものではないと考える。
逆に、
「女性差別解消の象徴となるもの」
であるとも考える。なぜなら、以下の記事を見てほしい。
この記事によると
レースクィーンとして「レース」に出会う
「レース」に出合ったのは、大学に入ってしばらくしたときです。当時、渋谷でスカウトされてモデル事務所に所属していた私は、オーディションに受かった富士スピードウェイにレースクィーンとして初めて行きました。 最初は驚きの連続でした。ハイレグの水着にハイヒールを履くという衣装。ポーズを取る度にシャッターを押す何百人というカメラ小僧たち。90年代後半はレースクィーン全盛時代、アイドルや女優志望の子たちもたくさんいて、誰もがこれまで会ったことのない人たちでしたから。 そこで心奪われたのが、レーシングマシンの迫力だったんです。スタートの瞬間をピットで見ていると、何十台ものマシンからこの世のものとは思えない轟音が鳴る。彼らが一斉に富士スピードウェイの1コーナーに殺到していく緊迫感に圧倒されて、「なんなんだこれは!」って。 そのとき胸に抱いたのは、「自分はまだ真剣に生きたことがなかった」という気持ちでした。レーサーはもちろん、ピット内ではメカニックさんやエンジニアさんが、ネジを1本締めるのにも命懸けのような真剣さで取り組んでいる。
この文章で、理解した人はいるだろろうか?この記事を中心に、なぜ、レースクイーンが女性差別解消につながるのか自分なりに考えてみた。
1.男社会のレースの現実
これは、実際に見てもらうと早いだろう
別に、今のsuperGTが女性差別的だというわけではないが、理系大学の教授や大病院の院長と同じように、イメージ的に女性が入りにくい形に自然になっている。
2.グリッドウォーク
しかし、あるタイミングには女性も入り混じって、ジェンダーレスになる部分がある。それは、
グリッドウォーク/ピットウォーク
だ。これにより、レースクイーンなどの女性の方が、レーサーやマシンに対して直々に近づくチャンスだと考える。よって、全員が車に対して好感度を得なくても、一部が、「この車に乗ってレースしたい」
と思ったのなら、それは、レーサーが生まれる条件が整うと考える。
今は、
「カートから出場する以外の道はいばらの道」
だと、ドリフトキングこと土屋圭市氏や織戸学氏が以下の動画で話している。
【公式】土屋圭市、ドリキン vs MAX織戸 ぶっちゃけトーク!Part3!!
しかし、86/BRZレースやeスポーツであるGTsportsからの道もなくはないと言っている。しかし、その道に行くのならば、結果的には車に対して「移動手段」から「楽しむもの」にしなければ、その道すら閉ざされてしまう。結果的にはレースクイーンなどにより、緊張感を近くで感じ取ることができればその楽しさがわかり、レーサーになりたいと思う人間が生まれるのではないかと考える。
4.なぜ、レースクイーンが女性差別の象徴と言われるのか?
ここまで、私の考えを述べさせていただいたが、フェミニストにも同じように
「女性差別の象徴」
だとの考え方もあるので少し考えてみようと思う。以下に列挙してみると次のとおりである(相当なアホがブログを書いていたのでそれを参考に)
という反論が発生するが、結局のところ、
僻み、妬み、嫉み
であると考える。
容姿は、天性的なところではあるのだが、天性的な物は世の中にたくさんある。例えば、世襲であったり、IQなどの学習センスは天性的なものだと考える。具体的には、小泉進一郎環境大臣や、安倍前首相は親が祖父母が政治家であるがゆえに、政治家になっており、学習能力に対しても、多くの金や重度の障害(ここでは全身不随)がなければ、医師免許、獣医師免許、定期運送用操縦士(パイロット)、弁護士などはなれる。
結局ないものねだりにしか感じられないし、もともとそこで働いている人の立場をひがんでる人間が同じレベルにしようとしているにしか感じられない。
ここでも結局
「自分さえよければ」
という考え方がはびこることにより、サルが騒いでいるとしか考えられない。
また、以下の画像をみてどう思うだろうか?
いろいろツッコミたいのは置いといて
これらを見たうえで下のものを見てもらいたい
一応togetterなので確証はできないが、現実に仕事ができなくなっている人間も存在する。資本主義国家である以上、仕事をしなければ生活できないのに、生活できなくなるように仕向けているとしか思えないのが私の感想だ。
また、次のブログを読んでほしい
果たして、これが皆が幸せに暮らせる世の中になるのだろうか?私は、断じて
「ノー」
と答えたい。
3.最後に
話が2点3点し始めたのでまとめていくと次のようになる。
「何でもかんでも排除していくフェミニストは、不幸を呼ぶ」
「僻み、妬み、嫉み、である」
「根本的な問題に自分さえよければの精神」
というような話になったと考える。
「自分さえよければ」
という考え方を持った人間は、免許を持たせてはならないと以前も書いたと思うが、やはり、この国の問題点としては、そのような精神が、はびこってるのが大問題だと考える。個人主義だとしても、自分さえよければの話ではなく、自分が幸せになるのならば、相手も幸せにしないといけないという考え方が、出てこない限り子供に対しての教育もできないと考える。
5.おまけ
- 人間はめんどくせえ
- 二次元と三次元の区別ぐらいせえ
- 別に胸がでかいからって騒ぐとか
- やっぱ男は単純で生きやすいのかもな
- 胸が小さくて切れるんだったら夜寝かさなかった親恨め
胸が大きくなる原因としては、女性ホルモンを大量に発現させればよかったんですよ。要は寝る子は育つ
なので私に娘ができたら寝かせますね。
今日はこれにて
口を開けばなんとやら(プリウスミサイルについて)
今日はこの話をしよう。
この事件をきっかけに、高齢者の免許返納が進んだ。しかし、田舎の方ではまだ返納が進んでいないのも事実ではある。2台連続で、高齢者マークがついている車に、出くわしたときには、走馬灯が流れた。
それはそうと、この事故をきっかけにことあるごとに言われる言葉がある。
「また、プリウスミサイルか…」
私は、この言葉にはとても違和感を感じる。
なぜ、この言葉に違和感を感じるのか?を今日は、まとめていこうと思う
そもそもプリウスとは
プリウス(PRIUS)は、トヨタ自動車が1997年から製造・発売している世界初の量産ハイブリッド専用車(スプリット方式)、およびそれを中心としたハイブリッド専用車のブランド(商標)である。
というように、世界初の量産HVとしてTOYOTAから出されている車であり、現在では4代目(ZVW50)でHVとPHVの両方で販売されている車である。モータースポーツでも大活躍している。(レース用はV8ではあるが…)
東池袋自動車暴走死傷事故とは
東池袋自動車暴走死傷事故(ひがしいけぶくろ じどうしゃぼうそうししょうじこ)は、2019年(平成31年)4月19日に東京都豊島区東池袋四丁目で発生した交通事故(自動車暴走死傷事故)[1]。
高齢者の運転する乗用車が暴走して交差点に進入し[2]、歩行者・自転車らを次々にはね[1]、計11人を死傷(母子2人が死亡、同乗していた加害者の妻を含む9人が負傷)させた[7]。加害者は自動車運転処罰法違反(過失運転致死傷)容疑で書類送検[3]・在宅起訴され[4]、2020年(令和2年)10月から東京地裁で刑事裁判が開かれている[5]。
とあるように、2019年4月に発生した死傷事故である。このブログの論点はそこではないのでここでは簡単に触れておく。
なぜ、違和感を感じるのか
この「プリウスミサイル」の言葉には、数多くの違和感があるが、3つにまとめていきたいと考える。
- この思考自体おかしい
- 犯人捜しという無駄な時間でしかない
- 開発者や技術者、ユーザーを馬鹿にしている
1.この思考自体おかしい
まず、なぜ事故が起こるのかを考えてほしい、自動車学校に行ったことある人ならば聞いたことがあるだろう。
「愚者が2人遭うと事故が起こる」
これは紛れもない事実であるのだが、もう少し考えてほしい。この言葉には機械について何か話しているだろうか?
答えはノーだ。自動運転が開発段階である以上、何が何でも機械が責任をおうこともない。しかし、この「プリウスミサイル」が言葉として残っているということは、自己が起こったら、大半の一般人は、機械のせいにしているといえる。私はそのような愚者に免許を渡してはいけないと考えているのだが、自動車学校にしてみれば経営問題にもつながりかねないので、仕方ないと言わざる負えない点もある。しかし、前に書いたブログでも「自分さえよければ」という考えが、この「プリウスミサイル」が広まった原因だと考える。要するに、免許を持つ資格のない人間が数多く生まれており、それが大多数を占めるため、健全な自動車社会に水を差し衰退に向かっているのではないかと考える。ここで、各自動車会社が抱える問題にも触れていくと、日本国民の大半が車を移動手段でしかないと思っている。これにより走ればいいという考えが出ており、定期点検も日常点検も何もせず、性能なんてどうでもいい、という車好きから言わせてみれば、サル以下の考え方だと思わざる負えない考え方が2019年4月を皮切りにサル以下の考え方が表面化し、その影響で自動車会社が窮地に立っているのも表面化した。
(自動車会社は魅力ある車づくりをめざしてはいるのだが、魅力ある車作ってもサルが多い日本では絶対売れないと考える)
結局のところ、自動車を運転してはいけない人の増加に伴い、「プリウスミサイル」という言葉が増加したのだと考える。
(FFなのにタイヤチェーンをリアタイヤにつけるサルもいるぐらい)
2.犯人捜しという無駄な時間にしかない
「時は金なり」
このことわざを知らない人はいないだろう。しかし、プリウスが悪いとなればTOYOTAが悪いことになってしまう。そうなると、サル共は不買運動などアホなことしだすのだが、それは結局、自分のためになるのだろうか?私は絶対ならないと考える。なぜなら、起こったことは変らないのに他人の迷惑をしてまで、やるべきものではない。また、その起こったことについて自分ならこうするといったイメージトレーニングをした方が、自分や家族のためになうと考える。
犯人捜しをしたところで、あなたは事故を100%起こさないといえる自信はあるのだろうか?私は、100%起こさないと自信もって言えない。誰しも事故の加害者、被害者になる確率がある。また、事故を誘発させたと見られたら、交通事故の加害者であることには変わりない。かもしれない運転をやっている人ならば、100%起こさないとは言えないのは自明ではある。だろう運転は知らないが…
3.開発者や技術者、ユーザーを馬鹿にしている
いろいろと言ってきたが、結局ここに戻ってくる。例えば、GRヤリスを例に出しても、数多くの国籍を問わない人間が、知恵を振り絞って、ユーザーへおもしろい車を作っているのにもかかえわらずそれらの人々に面と向かって、
「ゴミ車だ」(私は素晴らしい車だと思いますよ)
なんていえるだろうか?私は絶対言えない。同じように、プリウスを開発した人やHVを量産型にした人々に
「プリウスミサイル」
なんていえるだろうか?私が開発者ならば、殴るのが最低限度だと思う。私の主観は置いといて、じゃあプリウスミサイル連呼している某youtuberの愛車はGT-R R35なのだが、そのR35はスープラやNSXに比べれば三十路にしか見えない。言い方変えれば古臭いとしか思えない。そのR35に
と言われたら彼は、相当ぶちぎれると思う。要は、人の嫌がることをするのがおかしいわけだし、その車を好きで乗ってたり、我が子のように開発に携わった人々に対して失礼だと考える。
最後に
私は、プリウス自体好きな車である。なぜなら、加速も操作性もよく、手を加えれば、とんでもなく化ける車であるからだ。しかしながら、無免許の人間や運転したことがないサルに「プリウスミサイル」といわれるのがとても悔しい。だから、「プリウスミサイル」という言葉が存在するこの現代社会の問題点を出したつもりではいる。運転する素質がないサルの多さや、他人のことを思わないサル、それをはやし立てる猿youtuberなど…これらが存在し続ける限り、プリウスミサイルなどの違和感を覚える言葉が続出するのは止まらないのかもしれない。
P.S.
どう考えても、プリウスやTOYOTAが悪いことはないようですね…一回縁石乗り上げてアクセル戻さなかったのでしょう。
つたない文章でしたがお読みいただきありがとうございました。
誰かの不幸の上で幸せは成り立っている
Q土日祝何も気にせず休日を謳歌できるのはなぜか?
この質問を一度でも思ったことがある人なら私が言いたいことはそれでおしまい。なぜ、今このようなことを考えさせようとしているのか?それは、幸せになるには、誰かを不幸にしなければ到底なりえないのだろうかと考えさせたいからです。土日祝日何も気にせず休める理由として、誰かが、その休みを削ってまで働いているから。
幸せとは何ぞや
休み自体が幸せなのかと考えてみればそうとも言えないが、幸せだなと思うときって大抵仕事していないときが多いと思う。例えば、ある人の趣味がアニメを見ることが趣味だとすると、やはり、休みの日に一気に見たほうが話の内容もわかりやすい。また、ある人は、プラモデルを作るのが趣味だとすれば、平日にわざわざやるだろうか?いややらない。(ニートは別)結局、幸せとは、休日で仕事がない人が味わうものだと考えている。
別に皆が不幸になれとは言わない
この話をすると、必ず「じゃあ、皆が不幸になればいいのか」という人も少なからずいる。しかし、本質はそこではないと考える。本質はもっと深いところにあると考える。例えば、休日、クレーマーや周りのことをなにも考えない運転に、あなたが店員であったり、トラックドライバーであったらどう思うかの話である。自分の休日を減らしてまで、家族サービスを減らしてまでやっているのに、急に怒鳴ったり、急に車線変更されたらどう思うだろうか?少しは考えてみてほしい。
自分さえよければ…
今の国際社会では、自国優先主義がまかり通っているのだが、個人対個人では、別物である。国対国ならばまだしも個人対個人であるならば、極論ものを奪っても文句は言えない、泣き寝入り状態になっても仕方ないと考える人が最近多いと感じる。自分さえよければその場所を汚しても構わない、自分さえ満腹になれば食べ物を捨ててもよい、自分さえよければ他人の子供なんかどうでもよい、正直に言ってまともな教育受けてない人だと思う。公共のものを汚したら片付ける。食べ残しはしない。(アレルギーは別)地域で子供を育てる。だろう運転ではなくかもしれない運転で運転する。車の整備はしっかりする。といった何気ないことでもできれば、児童虐待や食品ロスは減るし、労働環境は普段よりもよくなり、交通事故や煽り運転が本当に減ると考える。
マスコミにも責任がある
今のニュース番組見てると、無責任なまとめサイトのように編制されていると感じる。これゆえに、この国の国民は馬鹿になっていると考える。もっとも流すべき本質からマスコミは目を背け、あたかも、正義と悪者を決め、悪者を徹底的に叩くことで視聴率を取るのだが、果たしてこれが報道の自由なのだろうか?悪者にされた人にも人権は存在する。その人権をないがしろにしている時点でそこに正義はあるのだろうか?これは国民もマスコミも考えるべき問題ではあることには変わりない。
最後に
誰かの不幸の上で幸せが成り立っている社会の背景には、自分さえよければの考え方があるのではないかと考える。その自分さえよければの考え方がなくならない以上この国の問題は歳月を重ねても解決しないと考える。
初めまして
今日から自分の思いを書いていこうと思う。
なぜ、そのようなことを書こうと思ったのか。
それは・・・
人生は平等でも公平でもないからである。
世間では平等にだの公平にだの言うが、結局のところ、努力では超えられない壁が存在している。世襲といい、美形といい、この社会には一般人や努力している人には働かない見えざる手が存在していると考えるため、元から平等だの公平など存在しないものだと思う。
世の中には、そこまで可愛くないアイドルがセンターとっていたり、変に持ち上げられるものが数多く存在する。私は、このような理不尽で、理解不明な世の中の出来事に噛みつき、意見を述べ、それで炎上し、理解者を増やそうと考えている。
残念ながら、私の考えに共感せず非難する方もいるだろう。だけれども、私は私の身が滅びるまで、意見を変える気ではない。しかし、他者の意見を見るのは好きなので、私のブログでは炎上しようが、全否定しようが構わない。ただし、他人のブログまで行って討論を交わすのは迷惑になるのでこの場だけにしてほしい。
一番の言いたいことは、私は好き勝手言いたいことをいうし、読んだ人も好き勝手炎上なり、全否定しようがこのブログ内では、構わないが、ほかの人のブログは荒らさないでほしい。
社会の理不尽さや不思議さ、見えない不公平感を感情のままに書くので嫌いな方は見てもらわなくても構わない。