この人生以上に硬貨な死を

人生は近くで見ると悲劇だが、 遠くから見れば喜劇である。

誰かの不幸の上で幸せは成り立っている

Q土日祝何も気にせず休日を謳歌できるのはなぜか?

 この質問を一度でも思ったことがある人なら私が言いたいことはそれでおしまい。なぜ、今このようなことを考えさせようとしているのか?それは、幸せになるには、誰かを不幸にしなければ到底なりえないのだろうかと考えさせたいからです。土日祝日何も気にせず休める理由として、誰かが、その休みを削ってまで働いているから。

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幸せとは何ぞや

 休み自体が幸せなのかと考えてみればそうとも言えないが、幸せだなと思うときって大抵仕事していないときが多いと思う。例えば、ある人の趣味がアニメを見ることが趣味だとすると、やはり、休みの日に一気に見たほうが話の内容もわかりやすい。また、ある人は、プラモデルを作るのが趣味だとすれば、平日にわざわざやるだろうか?いややらない。ニートは別)結局、幸せとは、休日で仕事がない人が味わうものだと考えている。

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別に皆が不幸になれとは言わない

 この話をすると、必ず「じゃあ、皆が不幸になればいいのか」という人も少なからずいる。しかし、本質はそこではないと考える。本質はもっと深いところにあると考える。例えば、休日、クレーマーや周りのことをなにも考えない運転に、あなたが店員であったり、トラックドライバーであったらどう思うかの話である。自分の休日を減らしてまで、家族サービスを減らしてまでやっているのに、急に怒鳴ったり、急に車線変更されたらどう思うだろうか?少しは考えてみてほしい。

 

自分さえよければ…

 今の国際社会では、自国優先主義がまかり通っているのだが、個人対個人では、別物である。国対国ならばまだしも個人対個人であるならば、極論ものを奪っても文句は言えない、泣き寝入り状態になっても仕方ないと考える人が最近多いと感じる。自分さえよければその場所を汚しても構わない、自分さえ満腹になれば食べ物を捨ててもよい、自分さえよければ他人の子供なんかどうでもよい、正直に言ってまともな教育受けてない人だと思う。公共のものを汚したら片付ける。食べ残しはしない。(アレルギーは別)地域で子供を育てる。だろう運転ではなくかもしれない運転で運転する。車の整備はしっかりする。といった何気ないことでもできれば、児童虐待や食品ロスは減るし、労働環境は普段よりもよくなり、交通事故や煽り運転が本当に減ると考える。

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マスコミにも責任がある

 今のニュース番組見てると、無責任なまとめサイトのように編制されていると感じる。これゆえに、この国の国民は馬鹿になっていると考える。もっとも流すべき本質からマスコミは目を背け、あたかも、正義と悪者を決め、悪者を徹底的に叩くことで視聴率を取るのだが、果たしてこれが報道の自由なのだろうか?悪者にされた人にも人権は存在する。その人権をないがしろにしている時点でそこに正義はあるのだろうか?これは国民もマスコミも考えるべき問題ではあることには変わりない。

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最後に

誰かの不幸の上で幸せが成り立っている社会の背景には、自分さえよければの考え方があるのではないかと考える。その自分さえよければの考え方がなくならない以上この国の問題は歳月を重ねても解決しないと考える。